長谷川貞信

長谷川貞信「(旧陸軍大将正三位)西郷隆盛像」

1877-11-05 貞信「西郷隆盛像」
生住昌大 蔵

画題:(旧陸軍大将正三位)西郷隆盛像
判型:大判錦絵
画工:長谷川貞信(長谷川徳太郎)/応需貞信画・印
版元:大阪・安田与三郎
彫工:彫工九逸
届日:明治10年11月5日

詞書

西郷さいごう隆盛たかもり薩摩さつまうまれにして、旧名善兵衛とひ、南洲なんしうごうす。天質うまれつき超群にしなみすぐれて、容貌も亦魁梧なり。る人、その不凡つねならぬの人たるをる。つと勤王きんわうをとなへ、嘉永年間京師みやこり、きよ水の法性院はうじやういん住僧じうそう月照げつしやうり、近衛このゑこうあいをえ、王室わうしつにぎはざるお〔を〕うれへ、伊地知いじち正治まさはる海江田かいえだ信義のぶよしはかり、大にすあらんとするにさいし、幕府ばくふ逮捕(とり)てくだし、その有志いうしをことごとく縛すくゝる西郷さいごう、月照をともなひ九州に走り、本くわんに入らんとするにあたはず。つい投海みなげ苦約くやくし、相抱て水中にる。ふな援救すくひをつくし、西郷はわづかよみがへり、月照はかへらず。かくて西郷は不思儀ふしぎ蘇生いきかへりるより、菊地きくちあらためしが、はん物議う□さをはゞかり、大島にながす。しまに在ること年にして、こゝろざしいよいよかたく、学問がくもんまた大に進歩すゝみせり。文久三年、赦され藩にかへり、名を吉の助とあらため、ぬきんで藩せい参与すつかさと□。慶応元年、幕府征長の兵をかへさしめ、各藩かくはん勤王きんわう幽因おしこめく。又すくなからず。戊しんの春、官軍くわんぐん東征とうせい参謀さんばうとして江戸城えどじやうくだし、尓後のち総督そうとくしたがひ、北越ほくゑついた平定へいてゐこうそうし、亦蝦夷地えぞち賊軍ぞくぐんやぶるにその計尽はかりごとことごとくてきせり。朝廷てうていため参議さんぎあぐるといへども、してはいせず。藩にかへれる明治二年六月二日、大せい復古ふつこ盛業せいぎやうたすけ、東京じやうおさめ北越にしゆつ張し、軍務ぐんむ励精べんせい指揮しき緩急くわんきう其図そのづあたり、つひに成功をそう宸襟しんきんを安じたてまつ叡感えいかん不斜(なのめ)ならずよつて其しやうとして二千石たまわり、四年、正三位に叙し参議ににんぜられ、六年四月、陸軍りくぐん大将にうつり、十月、廟堂びやうどう征韓せいかんろん作るにところはず。ついにやくしてくににかへる。又つゞいて賞典禄しやうてんろくすといへも、朝廷ちやうていゆるさゞるを以てこれもととし、郷邑さとむらにはかり私学校しがくこうを設りうし、又書生しよせい数名すめい外国ぐわいこく遊学ゆうがくせしめ、そのもと金をべんず。該県そのけんの少年どもくこれに服従ふくじゆんす。しかるに本年二月のころ桐野きりのしの原等とはかり、大政府せいふじん問を名とし、西郷これ元帥たいしやうとなり、大兵を引率し肥後ひご路に乱入たんにうせしゆへ、大政府はやくも之をせいせんと、海陸軍かいりくぐん諸隊しよたい錦旗みはたをひるがへし、九州路きうしうじ進発しんぱつせられ、豊肥日薩隅の地に戦争たゝかいありしが、九月のはじめ、賊兵ぞくへいふたゝ鹿かご児嶋におそひしろ山にこもる。官軍、之を十重とへ廿重はたへ取囲とりかこみ、堅護にかたく兵備そなへせられ、二十四日午前三時、四方よもより進撃しんげきとなりしが、今はふせぐにじゆつなく、つひに桐野、村田とも割服せつぷくして城山にたおる。残賊ざんぞくことごとしばりせらる。午前七時、まつた鎮定しづまりせり(以前いぜん高位こういこう官なりしが、くの如き暴挙ふる(まい)に加とうし、は天下の賊となる)。

所蔵者/掲載図書

生住昌大