当サイトの目的

「西南戦争錦絵」とは何か
What’s Satsuma Rebellion Nishiki-e?

明治10年(1877)2月、鹿児島県士族が西郷隆盛(1828-1877)を擁して決起し、これに九州各地の士族が呼応するかたちで反政府暴動「西南戦争」(西南の役とも)が起こった。この西南戦争をほぼリアルタイムで錦絵(浮世絵の一種、多色刷りの木版画)に仕立てたものは、現在一般には「西南戦争錦絵」と称され、知られている。

だが、この「西南戦争錦絵」のほとんどが新聞記事をもとにして描かれたものであることまでは、あまり知られていない。多くの「西南戦争錦絵」が画中に備える詞書ことばがき(説明文)は新聞記事を再編集して作られたもので、現在の私たちの目には美術品と映る「西南戦争錦絵」は本来、新聞とともに西南戦争報道の一翼を担ったメディアだったのである。

とは言え、なかには噂話にもとづいた一騎打ちの図や薩摩女隊の図など、実際の出来事を正しく伝えたとは言えない錦絵が数多く出版されいる。戦地から遠く離れた人々は、九州の地で繰り広げられるこの内戦の動向を「西南戦争錦絵」を介して注視しながらも、どちらかといえば戦記物を読んだり、講談を聴いたりするような心もちで愉しんでいたように思われる。

この「西南戦争錦絵」については、わずか1年ほどの間に500点ほどが刊行されたと推測されてきたが、独自に行った調査の結果、800点は下らないことが明らかとなった。いかに当時の人々が、これらの錦絵に親しんだのかがうかがえよう。

にもかかわらず、「西南戦争錦絵」は事件の盛り上がりに便乗して描かれた際もの的な性格を有していることから「芸術的価値」は認められず、さらに「史実」とは食い違う荒唐無稽な絵も多いため「史料的価値」も認められてこなかった。

しかし、虚実入りまじる「西南戦争錦絵」の爆発的な盛りあがりを今一度検討してみることは、当時の人々のイメージとしての西南戦争や西郷隆盛をうかがう民衆思想史の観点からも、日本の近代ジャーナリズム黎明期にあたる明治10年前後のメディア史の観点からも、必要不可欠なことと考える。

西南戦争に際して刊行された刷り物は錦絵だけに留まらず、墨摺絵や銅版扇面画など多岐にわたる。当サイトは、そうしたものも含めてその画像を公開し、刊行の全貌を明らかにしていこうとするものである。