
生住昌大 蔵
画題:(鹿児島県)まことの電知
判型:大判錦絵
画工:未詳
版元:大阪・鈴木利兵衛
記者:鈴木利兵衛
届日:明治10年3月26日
詞書
偖、西南暴徒勢揃の場所は、鹿児島城正門の外、大下馬跡に凡二十歩四面に柵を結び、広々たる野原に私学校の壮年輩等、着流し、股引懸け、皆々刀を横たへ、前後の列の擾雑より同士討の血を争ひ、凡其勢九千八百人、やがて隊伍を備へ、鉄器火縄を粧ひて、西郷、篠原勢は先立て鹿児島を跡み(に)見て、肥後水俣にて会陣す。去る二月十七日、十八日両日、死もの狂ひ兵三千、勇躍て八ツ代口え(へ)突前に進み、廿日の午後、兵千人余、分つて直に熊本より三里南なる川尻へ襲来り、則廿一日、川尻、熊本の間にて開戦に成たり。然るに熊本鎮台官兵四千八百人、暴徒皆殺にせんと、虎の如くに怒り、正々堂々勇威を帯し進まれたり。○廿四日の夜、三好、野津の両将、近衛の兵一大隊を卒ひて、南の関にて陣す。○廿五日、廿六日、兵を分つて、高瀬、山鹿大戦争は、官軍数千の兵中より、龍驤、虎賁の精兵斗を挺抜られ、前田達磨返し阪の戦ひ、互に雌雄をあらそひ、乱軍の折柄、暴徒閑道より出発して官軍大苦戦。○廿七日、官軍大勝利の電報達し○廿八日、暴徒廿日の敗北雪んと進み来る。官軍、数百挺の大砲を厳重に備へ放立けれ、其弾丸の内に死する者余多、利なくして敗す。○三月一日、休戦なり。跡は次号に報す。
所蔵者/掲載図書
生住昌大
熊本市博物館
福岡市博物館