大倉孫兵衛

大蘇芳年「西郷隆盛一代記」

1877-12-17 芳年「西郷隆盛一代記」
生住昌大 蔵

画題:西郷隆盛一代記
判型:大判錦絵3枚続
画工:大蘇芳年(月岡米次郎)/大蘇芳年画・印
版元:東京・大倉孫兵衛
届日:明治10年12月17日

詞書

(右)
文久三年、朝廷、幕府の間、頗る物議を醸し、三条公以下七郷(卿)、長州に下らるの途中、三田尻より原道太といふ士を大島に遣し、西郷氏を長州に召る。終に原氏、渡島を果さず。其後、藩主赦して再び藩政に参与せしむ。

慶応の末、徳川慶喜公、謹慎恭順して、上野に屏居す。西郷氏は官軍東征の参謀にて、既に先鋒、品川に入る時に、勝安芳君出て恭順の情状を陳ぶ。既に江戸城を引渡しの事を談ず。是、氏が尽力といふ。

明治十年二月、私学校党、磯の浜弾薬所に乱入し、之を掠奪し、続て「警部中原氏以下、西郷を暗殺せんとするは在廷貴顕の内命なり」と偽名をもふけ、暴徒、同氏等を捕縛し、苛酷の拷問をなす。終に西郷を大将とし、肥後に出陣す。

西郷氏は隆盛、旧称吉之助、南洲と号す。天資超然不群にして、島津家に仕へ、其始めは側納戸をつとめしが、其頃、松代藩佐久間象山、幕臣勝海舟君等と海外の学を研究し、嘉永年間に至て其名初めて顕る。

征韓の論合ず、重職を辞し、本国に在りと雖も、陸軍大将の官は旧の如しと、朝廷数々召ると雖も、たゞ病ひと称して応ぜず。たとへ外人対面を乞ふとも更に出て面せず。麁服を着して、常に荒蕪を開墾するを以て身の楽みとす。

嘉永癸丑の歳、亜艦、浦賀に渡来せしより、幕府の閣老、不得止天下の形勢を洞察し、異舩を打払はざるより、諸藩、其幕政の因循を密に慷慨し、頗る紛擾の萌あり。此時、吉之助は君命に因て京師に赴き、近衛公の愛顧を蒙る。

(中)
安政五年の秋、幕府、水戸、越前、其他三藩に謹慎を命ず。時に西郷氏も京師に在りて、屡々成就院の月照等と国家の事を談じ、終に月照と幕府の逮捕をまぬがれ、薩海に身を沈めて、後蘇生す。

賊軍、数戦利あらず。同十年九月、鹿児島再襲の挙あれども、弾薬尽て賊将、城山の穴裡に篭る。同月廿四日、官軍大挙。終に数賊を討取る。隆盛自殺し、首級を隠す。然れ共、後首級を得らる。其死がいを浄光明寺に葬る。

慶応元年、幕府征長の兵を挙ぐるや、先に長藩京師に乱を為す時に、薩藩の将となり、長軍を撃。みな同氏の指揮する処にして、その後、薩長の両藩、和議遂に成る等、専ら西郷氏の尽力といふ。同三年十二月、前将軍慶喜公、大政奉還の際、朝廷、氏を召て大会議に参与せしむ。而て東征の参議たり。

入水の後、旧藩の救助を得て、竟に蘇生し、名を菊池源吾と改む。然れ共、幕府の嫌疑を憚かり、藩吏、同氏を大島に流す。島に在ること数年にして、自ら大島三右衛門と称す。志しいよ〱堅く、学識すこぶる進む。

(左)
郷邑に私学校を設立し、書生を教育す。同氏、時として校に臨むといへども、家人も先生の出る所を知る能はずと。常に洋犬を愛して、自ら山野に猟し、終日得物を調理して麁飯を食し、夜は読書して他事を不顧と云。

明治四年、正三位に叙せられ、同六年五月、陸軍大将に任じ、参議を兼しむ。氏はつねに倹約質素をもつぱらとして、旧藩の窮士を撫育し、恩賜の賞典禄を以て学資その他に宛て、仮にも奢侈のおこなひなく、大に人望を同氏に帰すること、世人の知る所なり。同五月、征韓の論合ずして、その職を辞し、本国に帰へらる。

朝廷、隆盛が叛逆判然たれば、終に官位を褫奪せられ、賊徒征討を仰せ出さる。賊軍は破竹の勢ひに乗じて、肥後熊本に出軍し、同鎮台に逼る。陸軍少将谷干城君、賊が動静を察し、本城に立篭り固く守る。官軍、海陸より押寄、植木、田原坂に激戦す。

明治維新、奥羽征討の参謀となり、氏が計略空しからず、戦ふごとに勝利を得、強敵会藩、竟に降伏し、尋て奥羽全く平定す。朝議、同氏が偉功を賞せられ、賞典禄二千石を賜ひ、後、参議に任ず。

所蔵者/掲載図書

生住昌大
海の見える杜美術館
鹿児島県立図書館
鹿児島市立美術館
玉名市立歴史博物館こころピア
小西四郎『錦絵幕末明治の歴史8 西南戦争』