北九州市立大学 蔵
画題:(旧陸軍少将正五位)篠原国幹像
判型:大判錦絵
画工:長谷川貞信(長谷川徳太郎)/応需貞信画・印
版元:大阪・安田与三郎
彫工:彫工九逸
届日:明治10年11月29日
詞書
略伝
篠原国幹は鹿児島の士族たり。其性質温和にして、文学武道日に進み、常に勤王を主とす。亦西郷隆盛とは知己の友たり。慶応三丁卯年十月、徳川将軍慶喜、職を辞し、同月十二日の夜、俄に大阪に下り、浪花城に入る。朝廷之を聞し召され、其挙止の異なるを察し玉ひ、会津桑名の二藩、入京を禁ぜらる。斯くありし後、事もなく姑し時日をおくる程に、翌戊辰の年、正月三日、徳川慶喜入京あらんと、会桑の二藩之を先鋒として、伏見鳥羽の両道より大軍陸続と進み、戦端をひらき、薩長の二兵にてやゝ撃戦に及びし時も、しばしば奏功あり。其後征東総督に従ひ江戸に着し、西郷桐野等と倶に江戸城を受取り、亦幕の脱徒等与して彰義隊を唱へ、東叡山(東京上野)に屯集し、府内に権威をふるひ、官軍に抏論を仕掛、妨害少からざれば、五月十五日、官軍之を追討せしときも隊長となり、正兵指揮し、遂に黒門を破り、逆徒を追払ひ、大に戦功ありしと。維新の後、陸軍少将に命ぜられしが、西郷隆盛が職を辞してより、自分も職を退き藩にかへりしが、今回西郷、桐野、村田、別府、池部、其外私学校の壮年者等と事を議し、倶に大兵を募り、一陣の主頭となり、先鋒に進み、鹿児島県下を出立し、肥後熊本に出張し熊本城を囲み、数日にして之をとき、植木、山鹿、木の葉、田原坂等に撃戦し、三月のころ吉次越の戦に砲丸にあたり落命せしとぞ。
明治十年十二月日誌
所蔵者/掲載図書
北九州市立大学