画題:(旧陸軍少将正五位)桐野利秋像
判型:大判錦絵
画工:長谷川貞信(長谷川徳太郎)/応需貞信画・印
版元:大阪・安田与三郎
彫工:彫工九市
届日:明治10年11月21日
略伝
利秋は元中村半治郎といひて、鹿児島城の上吉野村実方と云ふ所に住せり。維新の前に薩藩の兵士にて京師に在番し、勤王の志厚く頻りに攘夷の説を主張し、そのころ水戸の耕雲斎が幕府に敵抏して筑波山にこもり、終に囲を突きて上京せんとせし時、桐野は単身にて敦賀に赴き、危険を冒して事情を探偵し、無事に京師にかへり、其後長州征伐のとき大に異議を起し、其伐べからざるの理を切論し、亦西郷とは兎角不和なる故、始終独立して事をなせり。慶応丁卯の年、事起りし時も御所の宮門を守衛し、会津の護衛兵を追はらひ、翌四年戊辰正月、慶喜上洛の折柄、伏見に戦端を開きしときも、真先にすゝみて敵中へ切入り、大に戦功ありしが、僅に今の軍曹の如きなれば、差たる名もあらわれず、夫より征討総督東下の時には先鋒隊となり、本隊よりは一、二宿づゝも進み、江戸に着し、芝増上寺の学連舎を陣営とし、西郷と共に江戸城を降し、後神田橋内なる酒井の上屋敷へうつり、或日河野四郎と共に他行せし帰路、神田にて旧幕臣の彰義隊の者に出逢ひ、無法に彼方より切り掛たるを、桐野は心得たりと抜き合はせて切結ぶ内、右の手の指を切落されしが少しも恐れず、終に其場に賊を切殺し、無難に本営に戻りたり。その後奥州に出陣せし時、会津を陥しいるまで度々戦功ありて軍監に命ぜられ、平定の後、賞典禄百余石を賜り、藩にかへり中村を改め、桐野利秋となのり、つゞひて大隊の長となり、東京に上り、間もなく陸軍少将に転任し、熊本鎮台の司令長官となる。該台に駐在せること一年にして、陸軍才判所長に転じ、明治五年征韓の論起りてより、西郷と共に職を辞して、終に無二の党となり、明治十年二月頃より西郷の謀叛に与し、四陣の長となり大兵を募り、鹿児島を出て肥後路に押入り、所々に軍略を指揮せしが、九月廿四日、鹿児島城山にて銃丸数ヶ所を貫き、終に城山のけむりと共に果しとぞ。
北九州市立大学