明治10年10月届

梅堂国政「鹿児島太平記之内西郷出陣子別之図」

1877-10-01 国政「鹿児島太平記之内 西郷出陣子別之図」
生住昌大 蔵

画題:鹿児島太平記之内西郷出陣子別こはかれ
判型:大判錦絵3枚続
画工:梅堂国政(竹内栄久)/梅堂国政図・印
版元:東京・深瀬亀次郎
記者:笑門舎
価格:6銭
届日:明治10年10月1日

詞書

兵書に曰、「勝負は戦場の常也。百度戦ひて百度負とも、何ぞ悔るに不有。漢高祖は七十余度敗戦をなし、後広河の一戦に勝を得て、四百余年の基を開きもふ」と。爰に西郷隆盛が其諸行を聞に、明治の初より皇国に儀名を輝し、国事に粉骨を終されしが、同年四年朝鮮国より来使に付、征韓義を入しかど、評定分々として不兵と也しかば、隆盛其職にあつて其義を入れわずは何の益かあらんと、大将の官を辞し、古里に去りて私学校を立、専ら徳を布。鱞寡孤独を恤む西方の人民、隆盛を随こと小児の乳房を随ふが如く、各々志しを煩け、西郷左右には桐野、別府のともがら有て、勇士は治世に乱を忘ずと、同国桜嶌にて弾薬器機を製造なせしが、豈謀んや、政府より疑惑の掛けさせられしかば、隆盛止ことをへず、西南に動騒なし、今かへ生土鹿児嶌の城山にありしが、去る九月廿三日の夜、子息菊太郎、真身赤に染ながら、「味方の大事」と註進なすを、隆盛聞て左右を見返り、「某し適々蜂起に及べども、宿運の拙なく味方は戦ふごとに敗せきし、胠股の者は龍門原上の土に辟皈し、今は某が一辟の刀を扶ず、某今より敵に駈向ひ、運を天に任し、有無有亡の一戦をなさん。若、戦場にて討死なさば、是今世の別れ也」と、飼に飼たる馬に股がり、痛手ながらも菊太郎親子、手勢を引供してコシキガ嶌に落行とは露白菊の末つむはな、菊三郎、於杉も供に妻兄弟が見送るも、目には溢るゝ紅涙や、彼漢楚の戦ひに、項羽がさいごの出陣を悲みし、虞氏が数行の涙の雨も今日は我身に降りかゝる雲る目元を拭ひつゝ、夫子の姿見ゆる迄、足元立て見送りしが、■に姿も雲霧に隔たりければ、思わずも一声呼びて伏搏を、菊三郎は扶起しさま〲に介抱なし、「家を捨、身を捨るは武士の常なり」と、其言葉に磨まされ、於杦も賢と歎きを止、「賢くも給ふ者かな、夫でこそ我君の御種。妄迷も隆盛が妄と呼れし身にしあれば、君の討死外に見て、何て面北に存命ゑん。敵一人也とも討度て、死出三津も御供なさん」と、大なる長刀右手に携さへ、左手に引し莟みの花、若子諸ともに敵に切入、乱軍のなかに討死なす。孝子烈女が功し感るに残りあり。
笑門舎述

(右)西郷ノ妻おすぎ
(中)西郷次男菊三郎、西郷隆盛
(左)西郷長男菊次郎、西郷の臣早川五郎

所蔵者/掲載図書

生住昌大
海の見える杜美術館
鹿児島市立美術館
福岡市博物館
小西四郎『錦絵幕末明治の歴史8 西南戦争』
塩谷七重郎『錦絵で見る西南戦争』