画題:西国紀聞出陣問答
判型:大判錦絵3枚続
画工:豊原国周(荒川八十八)/応需豊原国周・印、豊原国周筆・印
版元:東京・福田熊次郎
記者:戦々堂主人/応需戦々堂主人戯作・印
彫工:彫工弥太
届日:明治10年□月□日
▲西郷小平 菊五郎
●桐野利秋 団十郎
●「軍を統、権をたもつ者は将なり。勝を制し敵を破る者は衆なりと、三略記にもいへるが如く、足下は我等が総督たる隆盛殿の弟にて、勇略もつとも世に聞え、股肱とたのむ人なれば、熊本県下へ進入の先鋒となり、衆に抽んで功名して舎兄の本意を達されよ。
▲「ソハ仰迄も候はず。兄隆盛を初めとして、桐野、篠原両将まで今度の暴挙に与せしうへは、いかで拙者が違背すべき。去ながら、我兵の熊本県へ乱入するは、軍配甚だ然るべからず。夫故拙者は、先鋒に進んで無益の討死を致すを功とは存じ申さぬ。
●「コハ異なりたる足下の詞。熊本県へ出ずして、何れの地より攻入べきや。
▲「今度の一挙は孤軍にて、内国中の大軍を引受るべき企てなれば、虚を張て人を迷はせ、実を匿して敵に知らせず。熊もと城を取んとならば、選りし二千の兵士をば汽舩に乗て、天草より長崎港へ夜中に送り、又一隊は不意に起り、県庁を襲ふ時は海陸一時の勝利ならん。
●「シテ熊本の鎮台より操出す兵を喰止る用心なくんば、不覚をとらん。
▲「夫には兼て別隊を設けて営所に火を放ち、尚砲台を乗取らば、只一挙にして港を取、彼に海路の備ありとも、之を救ふに由なからん。是ぞ謂ゆる、迅雷耳を掩ふに及ぬ妙策ならずや。
●「さすれば官軍進撃の便路を一時たつに似たれど、近国にある台兵が此変動を聞時は、救の兵を出すべし。夫をも防ぐ軍略ありや。
▲「夫等は最も心易し。一手は県庁営所にせまり、後軍は川尻より進んで城を囲む時は、一日たりとも支ゆる術なく、忽ち落城するならん。長崎既に我手にあり。熊本も又陥らば、筑前、筑後、豊前、豊後は響の物に応ずる如く、我軍門に帰順すべし。さすれば九州一般は、忽ち見方の所領とならん。疾く檄文を送られよ。
●「足下の軍配奇策に似たれど、凡今度の企は、二万に近き大軍にて、我輩上京すると聞ば、誰かは是を拒むべき。熊本なんどは刃に血ぬらず、只一挙にして通行せん。何かは軍慮を費すべき。又、長崎は広場にて寡兵の守るべき地に非ず。政府の軍艦群がり来て、再び奪かへされなば、兵機屈して利なきの道理。
▲「スリヤかほど迄申ても、桐野公には迂策なる一筋道を上京さるゝや。
●「先んずれば人を制し、後れば人に征せらる。昔し上杉謙信が川中嶋の戦争に甲陽の強敵を討破つたる顰に倣ひ、此青竹を麾にかへ、全軍を率き陸路より平押に進む時は、此青竹の枯ぬ間に東京迄も攻入るべし。気遣ひめさるな、小平殿。
▲「遖れ先手の大将と頼みし君が、斯迄に思慮を決されたる上は、お諫め申も詮なき事。去迚陸路の先鋒を辞すれば命惜むに似たれば、真先駈て押出し、叶はぬ時は兼ての覚期。二月の空の淡雪と、
●「消る間待ぬ春風に、新政の旗吹靡せ、味方の勝利はまたゝくひま、
▲「とは云物の勝敗は、何れを夫としら波の、寄ては返す薩摩潟
●「千尋の海の底深く、巧みし暴挙の首途に、東に当りし破軍星、ひかりを増しは味方の吉瑞、
▲「山野にひゞくあの祝砲、
●「ハテいさましき、
●▲「しゆつぢんじやなァ。
応需 戦々堂主人戯作
生住昌大
海の見える杜美術館
鹿児島市立美術館